2013年03月16日

どしがたい

子どもからお年寄りまでが簡単に歌って踊って楽しめるダンスと詞を作ろうとし、再三の軌道修正(依頼人の指摘)にも応じず、結局できたのは健康体操。最終完成前の試作発表会のときに学生が言った「てか、誰も踊れねーよ」というつぶやきが印象的だった。ようするに、難しい歌詞と振り付けなのだ。振り付けの変更はほとんど行われなかった。   
   
「意思を継ぐ」と大それたことを言いながら、方針が急変し、ほっこり路線から行政の御用達に。身を切ってでもという鋭さもない。何の相談もなく、理念にしていた言葉が書き換えられていた。予想通りの批判が相次ぐ。ちょっとでも足しになればと助言するのだが、聞いていないようす。

「今日は一銭にもならないA社に行くよりお世話になってきたB社に行った方がよい」とアドバイス。「その通りだ」と言ってB社にアポ電し、さっそうと出ていった。数分後B社から「まだですか」と電話があり、1時間後A社から「今日おたくの人が来ましたよ」と携帯に電話があった。言っていることと行動が一瞬にしてあべこべになった。始めから僕のアドバイスを聞かなければいいのに。


地位や名誉、金のための一つとして「どしがたさ」があると思う。取材を通して出会ってきた多くの権力者がどしがたかった。人の話は右から左で、自分の主張をしゃべり倒し、ついには「まともにこいつの相手をしていても疲れるだけ。時間の無駄」と相手を折れさせる。意図してどしがたいわけではなく、何の違和感もなく、それがさも当たり前のような振る舞いだ。
「良心の呵責がある人には不可能な芸当」と友人は言う。幕末の英雄たちのような「したたかさ」とは全く違う種類のように思う。

テレビや新聞で知り合いが紹介されることがある。それらは私なら語る(書く)であろう部分が省かれている。記者の主観と会社利益のバランスで違うのだと思う。
どちらの報道も嘘はない。しかし、見せないようにしている質のものがある。例えば、どしがたさだ。「主観のない報道はつまらない」と思っているから僕の報道はいつまでたっても三流だったのか。他紙を読んでいると、きれいな日本語で実にサラリと情報を伝えている。文章の裏に嫌みがないとも。
主観をVTR後のコメンテーターに頼っている報じ方を卑怯に思う。取材をしてきた記者とVTRだけで語るコメンテーターでは持っている情報量が違いすぎる。情報を削ぎ落としたVTRを流し、批判や共感をコメンテーターのコメントに向けさせる種の報道に、意図したどしがたさを感じてならない。

意図したものであれ、していないであれ、どしがたくなれない人がいる。人の話を聞こうという意思があるのだ。いちいち聞いているからひと頭抜けれないのだが、そういう人間を僕は愛したい。
posted by しょごたん at 23:43| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | しょごたんのつぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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